吉岡ライブラリー セミナー「建築家」という構造的問題

2011年11月24日

分離派建築会は、明治維新以来日本の建築家を規定してきた構造的な問題が、最も露骨に現れた歴史的ケースである。
一方で、技術の次元を超えた芸術としての建築を社会的に確立することを、建築家は常に求めてきた。他方で建築家は、社会の使用人としてではなく社会に対面し自由な立場から提案を行う主体として自らありたいと望んできた。日本近代建築史とはこの二つの問題がさまざまに変奏されてきた歴史であり、この問題に対して確固たる基礎を築きえていないことは、現在も変わらない。
こうした問題が分離派建築会においてどのように現れたか描き出す天内大樹氏の博士論文『分離派建築会の展開 ──「分離」の対象をめぐる1920年代日本建築界の論考分析──』を起点に、建築家という構造的問題のありかをあらためて考えてみたい。(日埜直彦)

講師:天内大樹
司会:日埜直彦
日時:12月7日(水)18:00〜20:00(開場17:30)
会場:吉岡ライブラリー(東京都文京区湯島2-31-2新建築社内1階)
定員:80名(申込先着順・無料)
申込み:氏名、職業/所属学校、年齢、性別、メールアドレスを明記の上、emailにて下記まで。
Email: event@japan-architect.co.jp
主催:財団法人吉岡文庫育英会

問題設定 日埜直彦
天内大樹氏の博士論文を乱暴に要約するなら、分離派建築会の出発から退潮に至る過程の核心にあった「芸術」概念を丹念に追うことで、その歴史的文脈を明確化するものだろう。構造派と分離派の緊張関係に見られるような、工学と芸術が対立関係にあるような初期の素朴な芸術概念から、工学的な論理が同時に美的であることと合一するような工作連盟的な建築芸術観へと至る円弧においてこの問題は見えてくる。さて、この構造派と分離派の建築観の分裂は日本近代建築史上のひとつの宿命であるように思われる。論文は辰野金吾の以下の言葉を引いている。

そもそも建築学は美術すなわちアートと、科学すなわちサイエンスとより構成している学術である[…] この建築学科中に美術と併行両立しがたい科目がある.即ち構造学である、なかんずくその構造学中の数学がそれである[…]建築科にして美術と数学の両方が満足にできうるということははなはだ難しい

現代の言い方で言うなら、建築におけるエンジニアリングとアートの分裂ということになるが、これは既に辰野において痛感されていた。そして我々はこれが前川國男と丹下健三が戦後課題とした問題だったことを知っているはずである。構造的な挑戦と美的な挑戦が一致することがこれらの世代のテーマであり、とりわけ丹下はそれに弁証法的に止揚することに成功したと言っていいだろう。しかし同時に構造派と分離派の分裂は単に、エンジニアリングとアートの分裂というようなナイーブな分野の違いにとどまらない。この点に関しても論文は端々で触れているが、敢えてここでは以下のような単純化した構図を抽出したい。構造派は地震国日本においてしかるべきエンジニアリングを基礎においた建築を求めたが、佐野利器・内田祥三の課題をより大きく捉えれば、日本の近代化にふさわしい建築のあり方をインスティテューショナルに規定することにあった。これに対し、分離派の立ち位置は近代的自由人としての芸術家像を指向しており、ここにエンジニアリング対アートという対立点とは別種の、日本の近代化という大きな文脈における、近代建築と建築家のありように関する重大な対立があった。インスティテューショナルな近代建築と建築家が主導する近代建築、日本の近代化の礎としての建築の整備と近代化した日本における建築芸術の表現、こうした分裂である。この分裂もまた辰野に既に胚胎されていたものである。辰野は東京駅、日本銀行本店、国会議事堂を自らの手で設計することに執着したが、同時に彼はフリーランスの建築家であることに固執した。片山東熊や妻木頼黄のようにインスティテューションに浸からず、曽祢達蔵や横河民輔のように在野の建築家であることに自足しなかったのである。そしてこの分裂もまた、丹下によって止揚されたと言うことも出来るのではないか。単に日本を代表する建築家というだけでなく、「国民建築家」(cf八束はじめ)であった丹下健三である。近代日本を体現し、同時に自由人である建築家として、少なくともある期間、丹下は辰野以来の分裂を止揚していたのではないか。

さて辰野に既にあった分裂が、構造派/分離派として具体化し、丹下において一瞬交わり、そうして見たとき現在この分裂はどのように見えてくるだろう。ふたたび分裂しているのか、それとも晴れて総合されているのか。前者の分裂は結びあわされたと言って良いかもしれない。少なくともそのような総合性を備えた建築を最近の実例から思い浮かべることはさほど難しくないだろう。後者の分裂はどうか、ここが問題だ。芸術概念とはそのとき何を意味するだろう。



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